『放浪息子』の二鳥くん

 ちょうど今アニメが放送されている志村貴子の『放浪息子』について、色々と思うところがあるので書いていきたい。

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

 そもそも『放浪息子』が志村貴子の作品の中でどんな位置にあるのか、考えてみる。
 志村貴子の漫画には疎外感というものが付き物だ。どの作品をみても、登場人物が何かしらのかたちで社会から外れている。たとえば『敷居の住人』のミドリちゃん、彼がそう呼ばれるのは髪を緑色に染めているからなのだが、これは相当に痛々しいキャラだった。
 思春期真っ只中のミドリちゃんは世間では何となくやるべきだとされている事柄を素直にこなせず、かといって特にやりたいことを見つけることもできていない、そんなひとだ。小心者だがかっこ悪いことは嫌いな彼は、髪を染めたり学校をサボってゲーセンに行き、煙草を吸ってみたりもする。
 とはいえミドリちゃんは自分でもそうした抵抗の身振りが古臭くステレオタイプだと分かっている。分かっていながらも、しかしそれを止めることができない。結果、ちょっと照れつつ反抗的な態度をとるありがちな少年になってしまい、またそのことにも苛立つ。周囲の人間からみればそうした一連の葛藤のようなものはあまりに見え透いていて、恥ずかしくなるほどだ。
 それで『放浪息子』の主人公、二鳥くんがどうなのかというと、ミドリちゃんとは一見似ても似つかない。学校をサボるどころか髪を染めることすらできないし、煙草を吸うなんてもってのほかだろう。だがそれでも彼らはどこか似ている。それは二鳥くんのジェンダーアイデンティティの問題に関わっている。
 二鳥くんは自分の性別だとされているものになかなか納得がいっていなくて、ふとしたきっかけから出会った女装という選択肢に魅入られる。彼は「男」の自分よりも、女装をした姿のほうが正しいと感じる。今の自分とは違う、別の姿に憧れるという意味で、二鳥くんの女装とミドリちゃんの緑髪は近いのだといえる。
 もちろん二人の間には大きな違いも存在する。ミドリちゃんよりも二鳥くんの変身のほうが、より積極的な意味合いをもっているように思える。ミドリちゃんは誰かになるのが嫌で、何者にもなりたくないひとだったが、二鳥くんは女物の服装に着替えて長髪を被るとき、明らかに「誰か」になっている。誰かになるというのは、だらだらと延長を続ける留保とは全く異なり、その瞬間に何者かとしての自分を引き受けることだ。
 ミドリちゃんの反抗に共感できない人間はそれほどいないと思う。何かであることを受け入れるのはそれほど簡単ではないからだ。そこで、ミドリちゃんの問題は何かにならないままではいられないこと、つまり何かであることそのものであって、『敷居の住人』は一種の成長物語になっている。
 それに対して二鳥くんの場合、一方では元々自分だとされていたものを忌避しているのだけれど、他方で明確になりたいものをもっている。二鳥くんにとっての「女の子」とは「男」ではないものとしてあるだけでなく、それ自体として「なりたいもの」の位置を占めている。
 そして同時に二鳥くんは「男の子」の身体をもっているため、なりたいものになれない局面がでてくる。いつか完全に女装の似合わない身体に成長してしまうかもしれないということ。ここで揺らいでいるから二鳥くんの問題は何かになること、それ自体だといえるのだ。
 ミドリちゃんの反抗に共感したひとは、二鳥くんの変身にも共感するだろうか。個人的にはそうあって欲しいけど、どうだか分からない。わたし達は何かにならないといられないが、誰もが何かになろうとするとは限らないからだ。