テロルの現象学

志賀直哉『暗夜行路』新潮文庫
中野重治『藝術に関する走り書的覚え書』岩波文庫 
笠井潔『テロルの現象学ちくま学芸文庫
 時任謙作金持ち&勝手気まますぎワロタ、というのは中野重治によっても指摘されてるけど、『藝術に関する走り書的覚え書』にはその文章は入ってない。
 
 さておき、テロルの現象学である。
 マルクス主義が資本主義社会そのものを問題にする以上、資本主義を意識的に肯定しているかどうかに関わらず、そこで生活を営んでいる人々はその生活の事実によって無辜ではありえない、と考えられる。確かに考えられるのだけど、でもそれで革命の障害になる一般人に暴力を振るうことが許されるのかというと、もちろん容易に頷くことはできない。ここでは本書の言葉でいう観念の顛倒が起きていて、自己観念の暴力、反抗的テロリズムというものが生じているのだと言える。
 本書の全体の構成は「1 自己観念」「2 共同観念」「3 集合観念」「4 党派観念」となっていて、この前後に序章と終章がついている。先に触れた問題が論じられるのは主に「1 自己観念」だ。しかし「自己観念の暴力は、共同観念の制度的テロリズムによって不可避に産出されるもの」だし、自己観念の極限として描かれる連合赤軍テロリズムには「党派観念による総体的テロリズムが濃く影を落としている」。つまり観念の必然的な展開として共同観念―自己観念―党派観念というモデルが提示されるように、自己観念の問題はそれだけを切り離して論じることが出来ない。
 それでもなお自己観念の暴力について端的に一つの説明を行うとすれば、現実的な世界を喪失したインテリゲンチャの、観念による自己回復だということになる。彼らは現実生活における不適応者であり、共同性から疎外されている。言い換えれば現実の世界を失っている。それに耐え切れなくなった彼らが観念的な投企を行ったとき、自己観念の暴力が生じる。
 たとえば先の例でいうと、資本主義社会の生活者はそれ自体が罪を持っているとしたとき、逆に考えれば生活者の罪によって犠牲になる無産者階級や第三世界の人々といったものが想定されている。しかしそうした人々の像はよくみれば極めて曖昧であり、インテリゲンチャの頭のなかにしか存在しないということもできる。インテリゲンチャの目的は実は明言されている善や悪の内容とは関係なく、既に存在する共同観念の世界を否定し自己を絶対化することにあるのだ。ここにおいて「善によって世界を滅ぼ」すということが起こり得る。イワン・カラマーゾフはこの地点に立って、善のためなら子供を犠牲にしてもいいのかと聞いたのだった。
 ……とまあ他人事のようにコメントしたけど、もちろん自分の問題として関心があったからこの本を読んだわけだし、上のまとめ方も恣意的なものになっていると思う。一方では罪のない人間はいないという理屈も分かる、でも他方ではその理屈の危うさみたいなものを感じる、ということがあったから、本書を手に取った。結果その危うさみたいなものについて少し分かった気はするものの、腑に落ちない部分もある。不可能性と不可避性じゃないけど、結局実践的には観念的な投企を行わざるをえない局面があるんじゃないだろうか、という。