●児玉聡『功利主義入門』ちくま新書

つまりそれはもう言語をもっているか、理性的であるかなどの区別と関係なく存在するから、動物と人間とを差別するものではない
posted at 00:41:20

むしろ快楽とか苦痛より、それが与えられる体験の質こそ重要なのかもしれない。嘘をついても苦痛になる場合とならない場合があって、特定のだれかを特定のしかたでだますこと、その体験が高級な苦痛だとか
posted at 00:38:54

しかしまあその苦痛に価値があるとかいうのは人間の勝手だしなあ…
posted at 00:23:36

かりにこれを動物にはない、人間特有の苦痛だとすれば、苦痛を感じられるようになることは容易に肯定されそう。道徳的な人間に近づくこととして
posted at 00:21:23

高級な苦痛について考えてみると、たんなる肉体的な痛みではなくて、嘘をついてしまったことで精神的に苦痛を感じる場合などが思いつく
posted at 00:13:25

児玉聡は快楽の質だけでなく苦痛の質についても論じている。ブタの苦痛とソクラテスの苦痛?「われわれは高級な苦痛を感じられる人間にもなるべきなのだろうか」
posted at 21:53:44

ベンサムの弟子、チャドウィックはその思想にもとづいて公衆衛生の改革をおこなったが、彼は医学より工学こそが公衆衛生上の問題を解決すると考えていたらしい。生政治の時代。
posted at 21:03:19

ピーター・シンガーもおもしろそうだよなあ…。「彼は工場畜産や動物実験の禁止を唱え、われわれにベジタリアンになるよう要求する」動物と人間は同じように苦しむから、ことなる仕方で扱うべきではないという
posted at 19:02:32

「彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければならない」とするのが直接功利主義で、そうでないのが間接功利主義とか
posted at 18:48:19

もちろん公平性は重視しつづけるとはいえ、まあふつうにいい話だった
posted at 18:43:11

というか功利主義入門なうなんですが、もともとゴドウィンは家族への愛情について公平性を欠いていると批判していたのに、ウォルストンクラフトを失うとむしろ家族への愛情が功利主義的なふるまいをうながすとかいいだすらしく
posted at 18:39:27

メアリ・シェリーってアナキストのゴドウィンと先駆的なフェミニスト、ウォルストンクラフトの娘なんですね。それでシェリーと駆け落ちしてフランケンシュタインを書くと。これは伝記を読んでみたいな
posted at 18:30:21

 
坂部恵和辻哲郎 異文化共生の形』岩波現代文庫

全体と個を直接むすびつけるのはよくないから中間的な共同体を考えようみたいな話はつまらない。でもこんな風に、ひともものも含むような根源的な場所を全体主義とことなる可能性として提示できるなら刺激的だ
posted at 17:47:53

坂部は和辻の著作を読み、全体と個が相互浸透する内包的空間と、排他的にむすびつく外延的な空間というふたつの論理を区別する。そうすることで、全体主義的だと批判されてきた和辻にべつの側面をみいだす
posted at 17:39:51

和辻には宗教人としての面がたしかにあると坂部は指摘する。幼少の頃から晩年まで、その想像力はときに幻視にまで高まり、超越的なものと触れあう
posted at 13:51:37

繋辞としての「である」を存在詞「がある」に、さらに「人間がある」に還元してしまう和辻に対して、坂部は人間があることすらその限定であるような、「端的な限定ぬきの「あり」」を求める。無の場所をとく西田に近づいていく
posted at 11:56:27

和辻の存在論は人間存在論であり、物の存在を認めない人間中心主義だが、坂部はここでも死のモチーフを読みこむことで人間と物の区別に疑問をもつ。物のはかなさを通して、想像力によって人間存在のはかなさを自覚するのが人間の思考ではないかという
posted at 11:35:19

ひととしてあることはよのなかにあることだと和辻はいったが、坂部は実際の集団としてのよのなかだけでなくひともひとならぬものも含んだ根源的な場、「宇宙的共感」を和辻のなかに読みとる。すなわちそこには室町時代の想像力が働いているのだと
posted at 11:22:23

「笑っている技楽面は泣くことができない。しかし死相を示す尉や姥は泣くことも笑うこともできる」と和辻。能面は表情を欠いていて、死相を示している。しかしだからこそそこに喜怒哀楽や現実より強い存在がみえてくる
posted at 10:53:32

その世界観はまた室町時代の想像力ともむすびついていて、近代化によって破壊されたものに晩年の和辻はひかれていたのではないか、と
posted at 10:30:35

坂部恵和辻哲郎。なぜ和辻が浄瑠璃劇にひかれたのかという話で、「死んだ物質である人形が、生きた自然の身体にまさって」現実より強い存在をつくりだす、すなわちそれは生の世界と死の世界との交換・交錯だという
posted at 10:24:01