村上春樹『若い読者のための短編小説案内』文春文庫
 プリンストン大学、タフツ大学での講義および帰国してからのディスカッションをもとにして書かれた本。村上春樹が創作者としての視点を生かして第三の新人の短編を読解していく。
 おもしろいのはその周到さ。春樹は冒頭から自分は海外小説を英語で読むことによって文体を形成してきた作家であり、日本の小説にはほとんど親しんでこなかった、親しめなかったという。続けて、それでも外国に住みはじめたことをきっかけに日本の小説を受け入れられるようになったのだが、私小説にはどうしても馴染めなかったと述べる。
 しかしこの本でとりあげられるのはほかでもない、私小説的だとされる第三の新人の短編なのだ。そのなかに春樹は、私小説の無作為とはことなる、明確な作為性を読みとる。「第一次、第二次戦後派と一般に呼ばれる一群の作家たちのいささか重苦しい構築性、意識性を逃れるためにも、もっと自分の背丈にあった私小説の入れ物をよそから持ってきて、それにうまく、ヤドカリ的に自分をあてはめていったわけです」というように、第三の新人にとって「私小説」とはあくまで作為の対象となる「入れ物」だったのであり、それは当時の文学における一つの新しさだったと春樹はいう。

 

久野収鶴見俊輔現代日本の思想―その五つの渦―』岩波新書
 五つの渦とは日本の観念論としての白樺派、日本の唯物論としての日本共産党の思想、日本のプラグマティズムとしての生活綴り方運動、日本の超国家主義としての昭和維新の思想、日本の実存主義としての戦後の世相を指し、それぞれ章を立てて個別に論じられている。
 どれも興味深いけれど、一番よかったのは鶴見俊輔執筆の一章、日本の観念論の代表として白樺派の思想を論じるところ。白樺派が観念論であるのは「宇宙の意志と自分の意志との調和を、実感によって知る」(認識)、「自我実現を人生の目標とする」(倫理)、「宗教を信じるというよりも、宗教を信じるということにたいする信仰」があり、神も仏をまぜこぜにしたシンクレティズムを知識人むけに翻訳した(信仰)という三点によるのだとされる。
 しかしそうした観念論としての白樺派にも実りはあったと鶴見はいう。同人雑誌のグループとしてはめずらしく、「おたがいの成長を助けるグループをつくることに成功したこと」が一つ。柳宗悦民芸運動という具体的な産物がもう一つ。そしてもう一つ挙げられるのが、大正七年に武者小路がはじめた「新しき村」の運動であり、これについて鶴見は唯物論以前の、観念論的発想による理想社会建設運動として歴史的な意味があったと述べる。
 全国から公募で文学青年を集めた武者小路の「新しき村」に対して、有島武郎は地主としての権利を捨て、親からうけついだ農場を小作人の共同所有にうつした。鶴見はどちらも同じく観念論的な社会改良だとするが、前者を積極的、後者を消極的と規定する。そして「新しき村」が長続きせずに限界をむかえたことをもって、観念論的な社会改良においては「他人を理想にむかってひっぱってゆくという積極的方法よりも、自己の過分な利益を放棄あるいは制限するという消極的方法」のほうが確実だとする。観念論の強みは自己の説得において発揮されるのであり、自己とことなる階級的利害状況の人々を説得する力はもちえないので、有島のとった方法は観念論の限界を踏まえてその効力を生かしたものだといえる、と鶴見は評価する。