円環少女シリーズ全体の感想

円環少女 (13) 荒れ野の楽園 (角川スニーカー文庫)

円環少女 (13) 荒れ野の楽園 (角川スニーカー文庫)

 2005年から続いた円環少女が完結した。基本的には救いのない話で、巻を追うごとにひたすら状況が悪くなっていって、主人公の武原仁も色んな意味で転落していくので、どんな落としどころを見つけるのかとても気になっていた。まさかこれほど大勢の登場人物たちが収まるべきところに収まるとは思わなかった。小説を書くってこんなに頭を使うことなんだなあと今さら当たり前の驚きがある。
 仁はかなり夢見がちな性質で、誰かが助けを求める姿を見たり、戦いの最中に光明を見出すと、すぐに理念的なものに飛びつこうとしてしまう。綺麗ごとを口にして、世界がどれだけ間違っているのかを糾弾しようとする。
 理念に対して、現実の重みが何度も覆い被さってくるから、現実的な解決を提案できない仁はどんどん流されていってしまう。それに対して、一時期武原家の食卓を象徴するきずなは仁を仮借なく突いて、「生活」を送ることを考えなければいけないと繰り返す。登場人物を突き放すある種の批評家として、きずなは作中に存在していた。
 そんなきずなの立場が転倒するのは十巻だ。誰も守ってくれるひとがいなくなった状況で、きずなは自分で戦いに参加することを余儀なくされる。それはきずなの「生活」が誰かに守られて初めて存在していたことを暴く出来事であり、きずなは「生活」にしがみ付きながら他人事のように仁を批判していたのだと、改めて思い知らされることになる。結局、理念を追い求めても生活を欲しても良い世界は得られない。
 仁は「偽善者」から「悪人」になることを決断するが、そこでは当たり前のように「善人」という選択肢が欠けている。理念のためにはどこかの局面で必ずひとを犠牲にしなければならないので、それを見てみぬ振りしてやり過ごすか、開き直って受け入れるかのどちらかしか選べない。
 だからどうやっても救いのある話にはなりようがない。十一巻でついに、全ての魔法世界とは違って「神」から見放されていた「地獄」である地球で、奇跡が起こるようになる。それは「再演体系の神」によるあらゆる出来事の監視と操作を意味するのだけれど、まさに偽善の極致のように見える。
 それを受け入れられない仁たちは「悪人」として振舞うことになるが、最終的には世界は偽善者のものにも悪人のものにもならなかった。世界が変わったのは現実が理念を崩すものとしてではなく、それ自体として信じられ、想像力に委ねられるからで、つまり批評家がいなくなったということだろう。