青い花再読
- 作者: 志村貴子
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2005/12/15
- メディア: コミック
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たとえば一話では、あきらとふみの対称性が鏡にうつしたように、かなり露骨に強調されている。初めて読んだときも気付いたのかもしれないけど、すっかり記憶から抜け落ちていた。
あと、ふみが杉本先輩と仲を深めるのは京子が泣いて立ち去ったあとだというところとか。これは、この後の顛末が暗示されているようにみえるし、実際に京子とふみの相似を表現する場面もあるだろう。
しかし六巻まで全体を読み返してみても、全体としてはそうやって同じものになっていく話ではないというのは、やっぱり明らかだと思う。江ノ島でのふみの「決別」など、伝染することがあってもちゃんと各自さまざまに進んでいっている。
『青い花』に関してはそうやって丁寧に人間を描いているところをみるべきで、少女か母かという話は中心に据えないほうがいいと考えている。
吉屋信子の少女小説(百合小説?)を巡って本田和子は、秩序を攪乱する反近代性が描かれてはいるが、それはあくまで「少女」であり、思想として成熟しなかったといっている。すなわち「女」であることを引き受けなかったことが良くも悪くも一つの特徴として見出されると(『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫)。それに対して川崎賢子は少女の汎エロス性を主張し、それ自体の独立した価値を取り出そうと試みていた(『少女日和』青弓社)。
けれどもこのような構図から少女ものを読んでいくと抜け落ちてしまうものも多数あるんじゃないかと思う。『青い花』ではもっと積極的に、人間の関係性を具体性をもって描いていくということが行われているようにみえるからだ。
もちろんその表現のために少女性ということが一役買っているとはいえそうだ。よしながふみ対談集(『あのひととここだけのおしゃべり』太田出版)に入っている、志村貴子×よしながふみの対談を読むと、特にその辺りの印象が強くなる。
よしながふみがあっけらかんと「女に生まれてる」から云々と話すのに対して、志村貴子は「女になるということ」への抵抗感を語っている。これは何だか与謝野晶子と吉屋信子の距離感をみているようでとても面白い。(本田和子は前掲書で、与謝野晶子の文章にみられる「うねる」「しなう」という言葉の「強靭さ」や、「ゆらぐ」「乱れる」の「衝撃性」と比較して、吉屋信子の多用する「ふるえる」の繊細さをあと付けている。)
とまあ、最近はこんな感じで色々考えています。時間がなくて『マリア様がみてる』の再読ができなかったことだけが心残りです。