病み上がりだけど、バベル-17が面白かったので

谷川俊太郎『空の青さをみつめていると 谷川俊太郎詩集?』角川文庫
●サミュエル・R・ディレーニイ『バベル-17』岡部宏之訳、ハヤカワ文庫SF

バベル17 (ハヤカワ文庫 SF 248)

バベル17 (ハヤカワ文庫 SF 248)

 食あたりのようなものにほぼ一週間やられていて、授業に出るどころか何もできずに家でごろごろしていた。先日ようやく収まったはいいけど、元々少ない体重がさらに目減りしてしまったので、どうにかしないと。お腹の調子がよくなったらどこかおいしいお店に食べに行きたいなあ。
 そんな事情もあってここのところ小説はあまり読んでいなかったのだけれど、それを差し引いてもディレイニーのバベル-17は傑作だと思った。「ニュー・スペース・オペラ」とか書かれているようにメインのプロットはスペース・オペラなんだけど、同時に色々おかしな要素が盛り込まれていて、異様な印象を受ける。そしてそれでなおエンタメしてるのがすごい。
 主人公のリドラ・ウォンは一世を風靡している詩人で様々な言語への造形が深く、そのことによってバベル-17という未知の言語の探求に乗り出すことになる。この大まかな筋書きが、単なる謎解き冒険もので終わらず、言語への深い洞察を伴って展開される。たとえばバベル-17を学ぶことによって全く様相を変えるリドラの主観的な体験を通して、言語は世界を認識する枠組みであるということが描かれているようにみえる。
 圧巻なのは、次の場面だ。後半に「わたし」と「あなた」という二つの概念を欠いた言葉を使う人物が出てくるのだけれど、リドラは彼に何とかして「わたし」の重要性を教えようとする。そのために「わたし」と「あなた」、二人だけの関係を理解させるものの、彼はリドラを「わたし」と呼び自分を「あなた」と呼んでしまう。ここでは他の人間が「わたし」になったり「あなた」になったりすることが考えられていないから、彼の凶暴な性質は、二人の関係性の外に向けて十分に発揮されてしまう可能性がある。
 これを見たリドラは次に、「わたし」や「あなた」の位置に来るのは自分たちだけではなく、他の誰であってもいいのだと説明する。しかしこれについては二人の会話で理解させられるものではないから、この場ではあまり納得してもらえない。この後の展開もそれを丁寧に追っていくようなものではないけれど、面白いのは最初の「わたし」の習得が「あなた」との二者関係のなかで行われているところだ。つまり一連の場面では、「わたし」の習得においてはいわば原体験として、渾然一体となった「わたし」と「あなた」の場がまずあって、その次にある種社会的な「わたし」の習得に移っていくのだということが示唆されているように読めるのだ。
 この発想にはすごく想像力を刺激されたし、もう少しこの方向を中心に物語を展開して欲しかったなということを思ってしまった。
 さておき、表紙の画像は何だかコレジャナイ感がしました。何故か昔の映画ポスターを思い浮かべてしまう。